京都・奈良を歩くゴールデンコース
6月3日 奈良公園とっておきプラン

起点は近鉄奈良駅です。10時丁度に到着した。

東大寺南大門

東大寺の南大門はこの寺の正門で,最初(757)は和様形式で建てられ
ていたが,1180年(治承4)に平家の焼討ちにかかり,そののち重源によ
り1199年(正治1)6月に復興上棟して,1203年(建仁3)の東大寺の総供
養のときには仁王像とともに完成したようである。この門は5間3戸で入
母屋造,内部は吹抜けで化粧屋根裏まで見通す構成となっていて,そ
の直線的な美しさは堂々たるものである。また天平期の基壇の上に建
てられているようで,天平創建の雄大さがうかがえる。あくまで垂直材と
水平材を貫いて構成し,その円柱は18本を数える。その建築様式は
仏様
(宋様式)といわれ,挿肘木を用いて7本の肘木に巻斗を上下整然
と並べて下方の腰屋根や上方の大屋根を支え,6段目では6個にもなっ
て壮観である。この様式は鎌倉時代の強固で簡素な武家的気風に合致
するもので,鎌倉時代の大仏殿もこの方法で建てられていたと考えられ
る。

東大寺大仏殿

728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺が東大寺の始まり
。華厳宗大本山。741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立
を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。743年にな
り聖武天皇が大仏造顕の詔を公布、745年に金光明寺にて造営が開始さ
れた際、東大寺となった。大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏
殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年になる。その後1180年に平重
衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は
1709年に再建されたものである。

賓頭盧尊者
大鐘

手が届かない。背が低い。⇒

ひときわ天空にそびえる鐘楼は、鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人
を継ぎ、大勧進となった栄西(ようさい)禅師が承元年間(1207〜10)に
再建したもので大仏様や禅宗様的な要素を加味した豪快な建物である。

念仏堂(国重文)

鐘楼の東にある寄棟造りの念仏堂はもとは地蔵堂といわれ、鎌倉時代の
建物である。堂内には嘉禎三年(1237)に仏師・康清が造った地蔵菩薩
像(国重文)
がある。

二月堂

752年(天平勝宝4)の建立とされる二月堂は、1667年(寛文7)に火災にあい
全焼し、2年後に焼失前の姿そっくりに再建されたものが現在の堂です。その
堂の舞台造では、大仏殿の屋根を眼下に奈良市内が一望することができ絶
景。本尊は絶対秘仏の十一面観音とされています。

三月堂
四月堂

手向山八幡宮は聖武天皇が大仏造営に際し東大寺の鎮守の神として
天平感宝元年(749年)宇佐より招聘、鏡池の辺りに祀りました。その
後、北条時頼が建長2年(1250年)現在地に移しました。古来、紅葉が
美しかったようで、菅原道真の歌が遺っています。

此の度は弊も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに (百人一首)

手向山八幡宮
ランチ

春日大社は、平城京の守護の為に創建された御社で本殿向って右(東)
から、第一殿 茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチ
のミコト)、第二殿 千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシ
のミコト)、第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿 比売神(ヒ
メガミ)は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えて
祀られている。奈良時代の神護景雲二年(768)、現在地に四所の神殿
が創設されたのが始り。藤原氏の氏神として有名。境内に含まれる主な
ものは、標高295mの御蓋山全域の山林部と、社頭から西方、飛火野、
雪消の沢一帯の芝原、若宮おん祭の御旅所(おたびしょ)から一の鳥居
に至る参道の地帯を含む平野部で、これら全域は昭和六十年国指定の
史跡である。

春日大社

奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)の
お堂です。  水面に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現
在の浮見堂は、旧浮見堂が老朽化したために、平成3年から平成6年に
かけての3年間の修復工事によって、その美しさを今によみがえらせまし
た。  春日大社より浅茅が原の林をぬけていくとつきあたります。

浮見堂

南都(奈良)七大寺に数えられる興福寺は、京都山科、藤原鎌足(ふじ
わらのかまたり)私邸に建立されたやま山階(やましな)寺に始まり、飛
鳥を経て平城遷都(せんと)に伴い現在地に移り興福寺と号した。藤原
氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国(奈良県)を支配し、僧兵
を擁し、比叡山延暦寺とともに、なんと南都北嶺(ほくれい)と呼ばれお
そ畏れられた。東大寺と同様、治承四年(1180)に平重盛の南都焼き
討ちで大半の堂塔を焼失したが鎌倉時代に復興。

興福寺
興福寺五重塔

東大寺の大仏殿と共に、奈良のシンボルとして親しまれている。高さ50.
8メートルの五重塔は、京都・東寺の五重塔に次いで日本で2番目の高さ
を誇る。光明皇后によって天平2年(730年)に創建された。たびたびの火
災で現在の塔は応永33年(1426年)に再建された。
興福寺は度重なる火災や廃仏毀釈等によって、貴重な文化遺産の多く
が失われた。境内に現存しているのは、五重塔をはじめ東金堂、北円堂
、三重塔、大湯屋、南円堂と中金堂と、各堂内に安置されていた諸仏等
を展示するために建てられた国宝館など。堂内が拝観できるのは東金
堂と国宝館だけだが、北円堂と仮金堂は春と秋に特別公開される。
東金堂は、中金堂の東に位置することから「東金堂」と呼ばれた。神亀
3年(726年)に聖武天皇が元正天皇の病気回復を願って造られた薬師三
尊を安置するためのお堂で、創建以来たびだひ焼失し、応永22年(
1415年)に再建。一重寄棟造り総円柱、本瓦ぶきは天平時代の典型的
建築様式だ。薬師三尊像をはじめ、文殊菩薩像、四天王立像、十二神
将立像等が安置されている。

南円堂は日本で最も大きい八角円堂といわれており、興福寺の
諸堂の中でも建立された時期は最も新しく、南円堂の造営をもっ
て興福寺全体の規模が整ったという。

南円堂
奈良国立博物館

猿沢池は、興福寺の放生池で、周囲約360m、面積約7,200m2の池で
、「興福寺流記」に、「宝字記云、南花園四坊、在池一堤、名佐努作波」と
記述があり、奈良時代には興福寺南花園に「佐努作波池」が築造されて
いたと考えられています。「佐努作波池」の名前の由来としては、池の北側
は三条通りの辷(すべり)坂に接し南側に尾花谷川が流れる位置関係から
「佐努」は狭野、「作波」は沢の意味と考えられています。のちに「猿沢池」
という記述になりますが、遙かインドの猿猴池(えんこういけ)からとった(「
天平年流記」)など諸説あります。

猿沢池