台湾の知り合いが京都、奈良の観光案内をして欲しいという要望が
あり、京都を2日間、奈良を1日案内した。

京都・奈良を歩くゴールデンコース
6月1日嵯峨野・嵐山
静寂の竹林を歩き古刹を巡るこれぞ古都、京都の魅力
嵯峨釈迦堂

JR山陰本線、嵯峨嵐山駅に到着。駅前の機関車の横で撮影後、早速嵯峨釈迦堂へ
向かう。徒歩で10分ぐらいで行ける。


「嵯峨の釈迦堂さん」の愛称で親しまれる寺である。インド、中国から日本へ来た三
国伝来の釈迦如来像が有名。像は、37歳のお釈迦様の生き姿をそのまま写したもの
だとか。さらに、昭和28年には像の胎内から絹製の五臓六腑などが発見されたとい
うから驚きだ。毎年4月には「嵯峨大念仏狂言」が演じられる。

写経が出来ます。

平安時代、嵯峨天皇の離宮でしたが、貞観18年(876)に、嵯峨天皇の皇女正子
内親王の発願により寺院となりました。鎌倉時代には後嵯峨、亀山、後宇多上
皇などの歴代の法親王が院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれていました。また、南
北朝騒乱の時代には南朝方の御所となり、元中9年(1392)には南北統一の媾和
会議が開かれたりしました。

大覚寺

弘仁二年(811)、弘法大師(空海)が化野の風葬の惨めさを知り、五智如来寺
を建て里人に土葬という埋葬を教えたのがはじまりといわれています。のち法
然上人がここに念仏道場を作った事から念仏寺というようになりました。

化野念仏寺(あだしの)

念仏寺に行く途中にお土産物屋さんが並んでいます。さすがに京都。並ん
でいる商品は垢抜けしています。

祇王寺に行く前にランチ

檀林寺は嵯峨天皇皇后橘嘉智子(檀林皇后,786〜850)が承和年間(834〜48)に
建立した寺で,皇后が招請した唐の禅僧義空が開山となり,わが国最初の禅学
興隆の道場として知られる。皇后没後,延長6(928)年に焼失し,平安中期に廃絶
した。

檀林寺
祇王寺

『平家物語』に名高い白拍子・祇王ゆかりのお寺です。平清盛の寵愛を受
けていた祇王は、仏御前の出現によって捨てられ、祇王は母と妹とともに嵯
峨野に庵を結び、尼となります。後に仏御前も祇王を追い、4人の女性は念
仏三昧の余生を過ごしました。

平安時代初期、承和年間(834〜847)に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖として建
立したのが起こりです。その後荒廃しましたが、法然上人らによって再興され
ました。応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼しましたが、本堂・唐門のみ約三
十年後再建されました。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、唐門「小倉山」の
勅額(後柏原天皇)は、この時に下賜されたものです。

二尊院

松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人、向井去来(江戸時代前期に活躍した俳人)の
草庵で、元禄4年(1691年)には芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記したと
いわれています。今の庵は京都の俳人、井上重厚が再建したものです。
当時、去来が庵にいることを知らせるためにしていたように、今でも土間の壁には
蓑と笠が掛けられています。庵には投句箱があり、優秀な作品は俳句誌「落柿舎
」に掲載されるとのことです。また、落柿舎から北100mほどの路傍には「去来」と
だけ彫られた向井去来 の墓があります。
のどかな田園風景にしっくりとなじむ、わら葺の建物です。

落柿舎

茅葺きの佗びた仁王門をくぐり、急な石段を登って本堂に向かう。小倉山の中
腹にあり、嵯峨野の風景を一望できる。秋になるとこの辺りはまるで紅葉のトン
ネルのように美しいのが印象的。さらに本堂の背後にある檜皮葺きの多宝塔
にかかる紅葉の赤がまぶしいアクセントになって、見事なコントラストを描き出
す。

常寂光寺

←6月だが紅葉のように見える。

渡月橋のある嵐山から天龍寺の北側を抜け、野宮神社へと続く竹林。嵯峨
野めぐりの人気スポットながら笹ずれの音を聴ける静寂な空間です。

嵯峨野竹林の道
天龍寺

優美な王朝の大和絵風の伝統文化と、来元画風の禅文化が巧みに融け
合い独特の美しさを完成しているのが、夢窓国師作庭の曹源池庭園。嵐
山、亀山などを巧みに取り入れた借景式庭園として、わが国初の史跡特別
名勝に指定。回遊式庭園としても最も古い遺構。平成6年には、世界文化
遺産にも認定されている。

仁明天皇の承和年間(834〜48年)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋
より二百米程上流の辺に橋を架けた。当時この橋を葛野橋とか法輪寺橋とも
云われていた。当時この橋を天竜寺十景の一つに数えられ、橋は朱丹に塗ら
れ東北河畔より嵐山一角の風光を眺望する、すぐれた景勝を展開していたの
です。それから四百数十年后、亀山上皇が月が渡るのをみて渡月橋と名付け
られた。この時の亀山御殿は嵐山大堰川もその庭と眺め、橋もお庭先と考えら
れていただろう。
 天竜寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えたが、応仁の乱で焼失
した。その後景徐という僧が勧進帳を作って橋を架けたが洪水で流失してしま
った。以后橋を架け替えたかどうか記録がない。橋のかわりに渡し舟がすでに
あったよう伝えられている。後、慶長年間(1596〜1615年)嵯峨の富豪であ
る角倉了以が保津川を開いた.時に現在の処に架け替えられた。

渡月橋
旅館は花筏

渡月橋の近くの温泉旅館花筏に宿泊する。

夕食は部屋で京会席