出発日:2004年3月2日(火)
プラド美術館
カテドラル

現在の人口は28万人程でアンダルシア第3の都市。が、産業活動に見る
べきものが無く活気に乏しいという。
歴史は古く、イベリア半島をヒスパニアと呼んだローマ帝国は最初の植民都
市をこのコルドバに建てた。今では古代ローマ時代の遺構としてグアダルキ
ビル川にかかる橋と城壁が残るのみ。しかしローマ皇帝ネロの家庭教師で
ローマ最大のストア哲学者といわれるセネガの誕生の地としても知られてい
るそうである。
西ゴートの時代からイスラム教徒の侵略するところとなり、イスラム教徒の
後ウマイヤ朝(10世紀)頃にコルドバは西ヨーロッパ随一の規模に発展した
。その周囲の城壁は全長12km、人口は10万(100万という記述もある)、城
壁外居住地区は21を数え、東方のバグダッドやコンスタンティノープルとそ
の威容を競るほどになった。
1236年のカスティーリャ王フェルナンド3世による征服後は一地方都市となり
、しだいに繁栄の道から外れていった。人口も16世紀初めには3万3000人に
まで落ち込んだという。

アンダルシア地方ではグラナダのアルハンブラ宮殿、セビリアのヒラルダの塔、そしてコルドバのメスキータが夫々の街の象徴という。「メスキータ」とはスペイン語でイスラム教寺院のモスクを意味するらしいが、通常はコルドバのモスクのことで、スペインのイスラム建築中の傑作とされる。
最初のモスクは758年に着工し3年後に完成した。「オレンジの木の中庭」とその南側にある「多柱式礼拝堂」である。これは長方形の石造建築で、砦のように厚く高い壁に囲まれていた。その後、987年まで4次にわたり増築が行われた。このモスク建築の特色は大屋根を支える円柱にピアを重ね、その上に白い石と赤煉瓦による縞文様の2層アーチ(馬蹄、半円、多弁形)を載せていることにある。確かに珍しく異様な雰囲気をかもし出していた。
1236年のカスティーリャ王フェルナンド3世の再征服(レコンキスタ)によりキリスト教の大聖堂となった。1510‐1607年には中央に十字形のゴシック風の教会堂も設けられて今日の姿となった。
このメスキータ中央部の礼拝堂建築はレコンキスタの勝利に基づくとはいえ、メスキータの記念碑的価値を認めるキリスト教徒も多く、改築には反対した人達もいたらしい。最終的には国王カルロス1世が教会側の意向を受け入れ改築の許可を出した。後日、中央部の聖堂を視察した国王は、「何処にも無いものを壊し、何処にでもあるものをつくった」 と嘆き、自分の軽率な判断を悔いたとされる。

カテドラル

メスキータ北側近くのユダヤ人街に移動。白壁の建物の間にある狭い小路を歩くだけのことだった。白い壁だけだと変化もなく殺風景なので壁に花の鉢を沢山取り付けている。これが観光的に人気があるという。道路で土産物を売る人もいたが総じて小規模な静かなエリアだった。

コロンブスが新大陸を発見した1492年にイスラム教徒のグラナダ王国がキリスト教勢力に滅ぼされ、スペインはレコンキスタを完了する。その時までイスラム教徒とキリスト教徒の間をつなぐ商活動をしてきた、とされるユダヤ人は同じ1492年にスペインから追放の憂き目にあった。スペインとしては今日まで敬虔なカトリック教国としての道を歩む基礎固めになった、ともいえよう。同時にスペインではシナゴーグが珍しい存在になったのだ。

カテドラル

途中の休憩所
で撮影

スペインワインのボデガ(酒造)で試飲
カテドラル

グラナダといったら、なんといっても洞窟タブラオで見るフラメンコ!だろう。

アルハンブラ宮殿の向かい、アルバイシン地区からさらに奥に入ったサク
ロモンテ地区はかってのジプシー居住区。岩山に穴を掘って住宅とした、こ
の洞窟住宅は夏は涼しく、冬はあたたかく、案外に住みやすいそうだ。この
住宅を舞台にフラメンコを見せるようになったのはいつ頃からだろう。

アルバイシンからみるアルハンブラの夜景