2日目
聖母マリア修道院 (Mosteiro de Santa Maria)

アルコア川とバサ川との交わるところに出来た町アルコバサ。ブルゴーニ
ュ朝の始祖アフォンソ1世が、建国して間もないポルトガルの国威を内外に
知らしめるため、そしてローマ教皇庁に独立国として認めさせるために、ヨ
ーロッパ諸国に影響をもつシトー派修道会にこの地を譲渡し、かつ保護す
ることで、キリスト教国としての存立を確立しようとしたのである。 1152年
にシトー派にアルコバサの土地が譲渡され、翌年から建て始められたサン
タ・マリア修道院の寄進も宣言された。シトー派は自給自足を旨とする会派
で、優れた開拓技術と農業技術を持っていたため、アルコバサは次第に豊
かな実りを得る地へと変わっていった。

シトー派修道会とは?

フランスで創設されたシトー派修道会が、ポルトガルにやって来たのは
1143年。白い衣装を見にまとっていることから「白い修道士」と呼ばれてい
た。祈りと肉体労働を自らに課す彼らは、農業や手工業のプロフェッショナ
ル集団でもあった。アルコバサ周辺で、農業と手工業が盛んになったのも
、かれらの存在なくしては語れない。また、アルコバサのシトー派修道会
は学問、とくに論理学や神学にたけていると評判だった。

アルコバサのシトー派の修道院は1153年に初代国王ドン・アフォンソ・
エンリケスにより建設された。シトー派の中でも強大な勢力を誇った修
道院として知られており、その画期的な建築様式と質素・簡素・禁欲とい
う厳粛さを貫いた建設姿勢精神を表現した点においてその価値は大き
い。1985年にユネスコの"全人類の文化遺産"に認定された。

"ペデロ王子とイネスの悲恋"

ペデロ王子は政略結婚の為カスティーリャ王国のコンスタンサ王女と
結婚をした。しかしながら、王女の侍女をして同行してきたイネスと恋
に落ちる。コンスタンサ亡き後、イネスを側室として子供までもうけたが
、カスティーリャ王国の圧力を恐れた父王と重臣たちの手によってイネ
スと子供たちは殺されてしまう。王となったペデロはイネス暗殺に加わ
った者を処刑し、イネスの遺骸を掘り起こしその結婚を正当なものとし
た。二人の棺は、最後の審判の日に二人が起き上がった時最初に見
るのが互いの姿であることを信じて、イネスは北を頭に、ペデロは南を
頭に安置されている。

ペドロとイネスの棺……

中央祭壇に向かって左右両脇に配置された棺。右がペドロ、左がイネスの棺。ふたりの棺は、お互いに足を向けて置かれている。眠りから覚めて起き上がったとき、最初に互いの顔を見つめることができるように……。

←教会本堂南腕に
安置されているドン
・ペデロ1世の墓(1
4世紀)↓

14世紀を代表する墓彫刻の傑作。最も美しい悲恋の恋物語を伝える。

教会本堂北腕に安置されているドナ・イネスの墓(14世紀)⇒

ドン・ディニスの回廊(14世紀)
シトー派が建築した最大級の回廊です。

マヌエル様式の回廊2階部分は、16世紀に増築された。↓

食堂と台所

大理石で出来た調理台と巨大な煙突。最盛時には999人の料理をまかなったという。

台所の巨大な煙突の内側

アルコア川から水をひいた洗い場。ここで使い終わった食器を洗ったといわれている。⇒

人の顔を模した水道の蛇口。↓

修道院の食堂

食堂の中にある朗読壇↓

食堂の前にある手洗い用の湧き水⇒

王達の広間(18世紀)。ポルトガル歴代王の粘土像が飾られ、壁面下部はアズレージョで装飾されている。

2日目