第三の露天風呂

混浴の大露天風呂の横に少し小さめの露天風呂がありました。多分混浴になると思いますが、誰も入っていません。こちらはお湯が透き通っているように思える。

東北支援温泉旅行
夕食
東山温泉・向瀧
近藤勇の墓に立ち寄る
鶴ヶ城
姥湯温泉・枡形屋

上の方に見えるのが枡形屋です。急な坂を登ってやっと到着しました。坂が急なので非常に疲れます。日帰り入浴ですが、今回は個室を予約してあったので部屋で少し休憩です。枡形屋の詳細は下記の通りです。

峠駅から約8km、急坂の林道を登り詰め、更に徒歩数分の、大日岳直下、白濁した硫黄の源泉流れる、前川の丘陵に建つ秘湯の宿。500年近い歴史、現在の当主で17代目という歴史がある。周りを荒涼とした景観に囲まれたその中に湯畑があり、溜め枡で自然冷却された源泉が2つの大露天風呂と女性専用露天風呂に注がれています。そこにある岩を主に使った大露天風呂は荒涼とした景観の一部となり、その環境とともに東北を代表する秘湯の宿です。昭和40年に林道が開通するまでは文字通りの秘湯でした。平成16年から17年にかけ、二棟を主に木造で新築(17年6月現在、一棟は新築中)、米沢最深部の豪雪に耐える堅牢な建物になりました。

初日(10月21日)

東山温泉は1300年以上前に行基和尚によって発見されたと言われ、上山温泉、湯野浜温泉と共に奥羽三楽郷の1つとして数えられています。竹久夢二や与謝野晶子、小原庄助、土方歳三など多くの有名人も訪れた温泉街で古くは「天寧寺の湯」と呼ばれ、鶴ヶ城に近い事から会津藩から指定保養所となっていた温泉です。東山温泉の中でも向瀧の前身である「きつね湯」は会津藩が藩費を投じて整備し多くの人達に無料で開放したことでも知られています。明治6年に民間に払い下げられ整備したのが現在の向瀧で、明治時代後期に建てられた部分を生かしながら、大正時代初期に棟梁本間辰五郎によって現在の本館である主屋を完成させています。昭和初期にも増築していますが既存の本館や庭園を意識した造りで一体感を感じさせます。平成8年に福島県初の国登録有形文化財に指定され、平成13年に会津若松市歴史的景観指定建造物に指定されています。

葦名盛信の建立により創設された天寧寺裏手の墓地にある。慶応4(1868)年、宇都宮から会津へ逃れた新選組副長・土方歳三は、七日町の清水屋旅館に宿泊し、 「天寧の湯」(東山温泉)へ通って足の傷を癒したといわれる。土方は登城して松平容保・喜徳に拝謁し、近藤勇が4月25日に板橋で処刑されたことを知ると、ここに墓を建てた。

鶴ヶ城は至徳元年(1384年)葦名直盛が造った東黒川館が始まりといわれている。その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し現在の城郭の原型を築いた(黒川城)。その後文禄2年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城、名前も「鶴ヶ城」と改められた。この時に積まれた石垣が現在の天守台で、400年経た今でも朽ちることなく往時の姿を偲ばせている。慶長16年(1611年)会津地方を大地震が襲い、石垣はもとより天守閣は大きく傾いた。この天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿を作り上げたのが加藤明成である。幕末、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争も、戦いの場は会津へと移り、約1ヶ月の籠城戦を戦い抜いた鶴ヶ城も明治7年には陸軍省の命令により取り壊された。その後、城跡は旧会津藩士遠藤敬止らの尽力により、陸軍省から払い下げられ、昭和9年に国から史跡として指定を受けた。現在の天守閣は昭和40年に昔の姿をそのままに復元されたものである。鶴ヶ城は奥羽の要・鎮守の意味もあり、名だたる戦国大名・勇将が相次いで入部した。独眼流で知られる伊達政宗、「天下人」と目された蒲生氏郷、関ヶ原の上杉景勝、賤ヶ岳の七本槍で名高い加藤嘉明、そして、名君誉れ高い保科正之である。その武人たちが築いた広大な縄張りは東日本一の規模を誇っている。

脱衣所です。

こちらは内風呂ですが、入りませんでした。↓

女性専用露天風呂

こちらは女性専用の露天風呂です。誰もいなかったので撮影が出来ました。連れの話では奥さんの写真を撮りにズカズカ入ってくる旦那が居るという。奥さん以外の人が居ても写真を撮るというマナーの悪さ、、、

混浴の大露天風呂と女性専用露天風呂があります。まず大露天風呂に入ってみます。まさに秘湯の温泉です。

サービスエリアのトイレは非常にきれいになっています。

山形県の秘湯、姥湯温泉、鶴ヶ城などを回った後、福島県の東山温泉・向瀧に宿泊。翌日は大内宿、湯野上温泉駅などをまわり帰宅しました。

お休みなさい
さるの湯

3つあるお風呂の内の一番大きい方です。

茶室麟閣

秘湯の宿、姥湯温泉なので枡形屋まで行く最後の10㎞は非常に狭くて曲がりくねった道になります。

高速を降りて姥湯温泉へ

この様な渋滞ではもう少し早く車が動くのだが、ノロノロです。

朝5時に出発
大日の湯

朝5時に出発しました。東北自動車道には渋滞もなく非常に順調に乗ることが出来ました。朝ごはんを食べないで自宅を出たので、高速道路のサービスエリアで食事をしました。ところが福島西インターの前で大渋滞です。災害復旧工事中という看板が出ていますが、ここで大幅に時間のロスをしました。姥湯温泉には10時に到着する予定でしたが、30分遅れでやっと到着しました。

きつね湯

このお湯は配管の工夫により常時44度〜45度の熱めに設定されており、お肌になめらかで、非常によく温まります。シャワーや蛇口のない昔の湯治場風のお風呂場です。しかし熱くて長い間入っておれない。

会津若松城主が、蒲生氏郷の頃に建てられたという茶室です。正確な建築記録は残っていないそうですが、おそらく天正19年~文禄2年(1591~1593年)の間ではなかろうかと思います。天正19年(1591年)、千利休が豊臣秀吉の逆鱗に触れ自刃させられたとき、子の少庵は蒲生氏郷を頼り会津へ逃れました。利休七哲の一人であった氏郷は、文禄元年(1592年)秀吉の赦免状が出るまで少庵を匿いました。少庵は翌文禄2年(1593年)には京へ帰っています。明治まで若松城本丸内に建っていた麟閣ですが、戊辰戦争後に若松城が取り壊される時に、江戸時代より薬種商を営んでいて、茶人でもあった森川宗久氏が自費にて私邸に移築しました。しかし、1ヶ月の籠城戦のあった若松城の本丸内にあったこともあり、傷みがひどくそのまま使える部材がほとんどなかったといわれていますが、修復に際しては、形状や寸法は全く変えなかったそうです。平成2年(1990年)に再度、若松城本丸内に移築され、会津若松市指定文化財に指定、現在は福島県指定重要文化財に指定されています。