日光観光と湯元温泉の旅 2013年2月7日~8日

輪王寺大猷院廟

つづく

戦場ヶ原

大猷院は江戸幕府三代将軍徳川家光が死後、後光明天皇から賜った法号です。慶安4年(1651)に家光が死去すると、遺言である「死後も東照大権現(初代将軍徳川家康)にお仕えする」に従い日光東照宮に近接する場所に埋葬する事になりました。4代将軍家綱は酒井忠勝に命じて承応元年(1652)2月16日から承応2年(1653)4月4日まで1年2か月という短い期間で大猷院を造営しています。大棟梁は平内大隅守応勝で日光東照宮を敬う立場から主要堂宇は東照宮方向を向き、規模的にはやや小規模で建築に施されている彫刻や色調も抑え気味、色彩も東照宮が白と金を基調としているのに対し大猷院では赤と金を基調としています。又、大猷院は東照宮の後に建てられていることもあって技術が飛躍的向上しているとされ個々の彫刻や工法、地形を利用した配置構成などは優れているとされます。

名前の由来は、神戦伝説「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説からきています。神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山なんたいさんの神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題で戦った。男体山なんたいさんの神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦った。赤城山の神は、男体山なんたいさんの神の助太刀の岩代国(群馬県)の弓の名手、猿丸の射た矢で右目を射抜かれ、戦いは男体山なんたいさんの神の勝利に終わった。この戦いがあったところが、戦場ヶ原。大百足の流した血がたまったのが、赤沼。勝負が付いたのが菖蒲ヶ浜。勝利を祝ったのが歌ヶ浜と呼ばれるようになったと言われています。

日光田母沢御用邸記念公園

中禅寺湖

竜頭の滝

湯ノ湖-ゆのこ-から流れ出た湯川-ゆかわ-が、中禅寺湖-ちゅうぜんじこ-に注ぐ手前にある。奥日光三名瀑-めいばく-のひとつで、男体山-なんたいさん-噴火による溶岩の上を210メートルにわたって流れ落ちている。滝壷-たきつぼ-近くが大きな岩によって二分され、その様子が竜の頭に似ていることからこの名がついたといわれる。春と秋には、周辺のツツジ、紅葉も美しい。

いろは坂より撮影

公園は、世界遺産に登録された日光東照宮をはじめとする二社一寺「日光の社寺」に近接し、北には男体山、女峰山等の日光連山を仰ぎ、南は大谷川の清流を隔てて鳴蟲山を借景とし、西は寂光の滝を源とする田母沢川を境とし、周辺を杉木立に囲まれた閑静で風光明媚な場所にあります。日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。

神橋

日光国立公園の入口となる大谷川の清流に、古くから神聖な橋として架けられたのが神橋です。神橋はアーチ形の木造反り橋で、その構造から錦帯橋(山口県)・猿橋(山梨県)と並んで日本三奇橋の一つに数えられています。