湯布院へ向かう

秋芳洞を後にして400kmぐらい走ると湯布院に着きます。関門橋を渡って九州に入りました。

毛利氏の伝統を受け継ぐ「萩大名行列」。毎年多くの人が江戸時代の歴史絵巻を楽しみます。勇壮な姿を見せる「平安古備組」と「古萩町大名行列」が金谷天満宮を目指して市内を練り歩き、一大絵巻を展開します。
九州ドライブ旅行
秋芳洞
木戸孝允旧宅
城下町萩散策

城下町・萩には、維新の息吹が今でも息づいていていて、城下町の町割りには、土塀が連なり、そんな中に高杉晋作の生誕地や桂小五郎(木戸孝允)邸などが残る。そこは、まるで、幕末にタイムスリップしたような感覚に陥る場所でもある。訪問した日は日曜日だったので、萩時代祭が開催されており、大名行列を見ることが出来た。

朝起きてからトイレに行って顔を洗いました。朝食はインターネットに接続できるマクドナルドで食べます。カーナビで検索して20kmぐらい離れたところにあるマクドナルドへ行った。インターネットへの接続は問題なく出来る。昨夜のうちに書いてあった日記をアップし、メールなどもチェックします。朝食もマクドナルドで食べて、トイレも済ませました。道の駅はウォッシュレットがなかったが、さすがにマクドナルドは綺麗なトイレでウォッシュレットもついています。

夕食
ホテル秀峰館

500~600m級の山脈に囲まれて盆地状の台地を形成しています。台地は標高約200m、主として古生代の石灰岩からなり、台地の地下には雨水によって侵食された鍾乳洞が多数散在しています。

木戸孝允は、天保4年(1833)萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となったので、桂小五郎の名でも知られています。17歳のときに吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加しました。嘉永5年20歳の時に江戸に遊学し、神道無念流の斎藤弥九郎に入門し、剣の道で頭角を現し、翌年には塾長に抜擢されました。さらに、造船術や蘭学を学び、25歳で萩藩に登用され、藩命により京都で公卿、他藩との折衝に当たりましたが、文久3年(1863)の政変以後は地下活動を余儀なくされ、翌元治元年6月の池田屋事件では危うく難を逃れ、帰国後は挙藩討幕に尽力しました。慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び、維新回天に尽力しました。維新後、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任し、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれました。イギリス公使となったアーネスト・サトウの「非常な勇気と意志を底に潜めているが、その態度はすこぶるやさしく丁寧であった」という孝允評からよくその風格が偲ばれます。この旧宅は、孝允誕生の部屋や庭園などよく旧態を残し、当時の藩医の生活様式を伺うことができ、国の史跡に指定されています。ここにはガイドが常駐し、施設の説明を行っています。

高杉晋作誕生地

高杉晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として天保10年(1839)に生まれ、安政4年(1857)に松下村塾に通い始めました。松陰からは「有識の士」として将来を嘱望され、松陰の死を乗り越え、江戸修行や自ら試撃行と称した東北修行の旅で松陰の師である佐久間象山らとの出逢い成長していきました。文久3年(1863)5月、萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切りましたが、四国連合艦隊の攻撃を受け、藩兵力の弱体ぶりをさらけ出す結果となり、この危機打開のため翌6月に奇兵隊を結成しました。少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道をもって勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建的軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしました。敷地内に晋作の写真や書などが展示され、自作の句碑「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ神や知るらん」や産湯に使った井戸があります。初代内閣総理大臣伊藤博文が晋作のことを詠んだ歌碑に「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」というものがあります。

萩焼のお店
2日目(11月14日)

秋吉台の地下100m、その南麓に開口する東洋屈指の大鍾乳洞「秋芳洞」は大正15年昭和天皇が皇太子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜ったものです。ひんやりと肌をさす冷気漂う杉木立を通り抜けると、秋芳洞の入口です。洞内からの水は三段の滝となり、飛沫を舞い上げながらコバルトブルーの川面へと流れ落ちています。洞内の観光コースは約1km(総延長10km)、温度は四季を通じて17℃で一定し、夏涼しく冬は温かく、老人、子どもも快適に探勝できます。時間が凍結したような不思議な自然の造形の数々は変化に富み、私たちの心に大きな感動を呼び起こさせてくれます。

秋吉台
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

厚狭毛利家は毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、萩屋敷は約15500㎡の広大な敷地を誇っていましたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残っています。本瓦葺き入母屋造りで、現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。昭和43年(1968)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などを展示しています。

萩時代まつり
湯免ダム(みすみ湖)

三隅川沿川の治水対策とともに、渇水時のかんがい用水等既得用水の確保や地下水依存の水道水源の塩分障害の解消のために、平成18年度に完成した新しいダムで、周辺の環境に配慮した美しいダムです。

ホテルには4時頃到着しました。部屋に案内された後、すぐに温泉に入りました。

景清洞は猪出合の西南のふもとにあります。洞の長さは約1.5kmで、支洞を加えるとその長さは増加。この洞は約1000年前に発見された鍾乳洞で、700余年の昔、壇の浦の合戦に敗れた平家の主将平景清が長らくひそんでいたと伝えられています。

景清洞(カゲキヨドウ)
天樹院墓所

毛利家の墓所の一つ。元就の長男隆元の子である毛利輝元と輝元の妻、殉死した家臣長井治郎左衛門の墓石がある。明治2(1869)年に廃寺となり、現在は墓所のみが残っています。