京都を歩こう
清水寺・祇園・知恩院

京都駅に9時に到着。市バス5,17系統に乗り銀閣寺道をめざす。35分
ほどかかって到着した。バス代は一律で220円。

茶碗坂

疎水沿いの木立の間に続く道。銀閣寺道から熊野若王子神社前の若王
子橋までの約2kmで、春は桜、秋は紅葉がトンネルのように続き、5〜6月
はゲンジボタルが飛び交う自然のままの散策路。哲学者、西田幾太郎は
思案にふけりながら歩いたという。傍らには洒落たカフェショップがおおく
、あちこち寄り道しながらのんびり歩くとよい。

茶碗坂

室町幕府足利八代将軍義政公が1482年(文明14)に造営を始めた山荘東山
殿を、義政公の没後、臨済禅宗の寺院とし、 義政公の法号慈照院にちなんで慈
照寺と名付けられた。江戸時代に、金閣寺(鹿苑寺)に対して銀閣寺と称せられ
るようになったらしい。

茶碗坂

正式名称は善気山法然院萬無教寺。浄土宗系単立寺院です。鎌倉時代
初期、法然上人が弟子の住蓮・安楽と共に六時礼讃(昼夜六度にわたっ
て阿弥陀仏を礼拝・賛嘆すること)を唱えた鹿ケ谷の草庵を、江戸時代初
期の1608年(延宝8年)知恩院第三十八世萬無和尚が法然上人ゆかり
の地に念仏道場を建立することを発願し、再興されたものです。趣のある
数奇屋風の茅葺の山門をくぐると、緑深い境内へ。両側には白い盛り砂
の白砂壇(びゃくさだん)があり、水を表す砂壇の間を通る事は、心身を清
めて浄域に入ることを意味しています。本堂には本尊阿弥陀如来坐像、
法然上人立像他を安置し、方丈の狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指
定されています。小鳥達のさえずりが響く閑静な境内には京の名水として
名高い「善気水」が湧き、椿の名所としても有名です。又、奥の墓地には谷
崎潤一郎や河上肇など学者・文人のお墓が数多く存在します。

茶碗坂

住蓮山安楽寺は、浄土宗の開祖法然上人の弟子にあたる住蓮上人・
安楽上人にその名前の由来があります。法然上人は、今からおよそ
800年前、建永の法難の際に打ち首の刑に処された両上人の菩提を
弔い、またその非業の死を後の世に伝えるため、山号寺号を「住蓮山
安楽寺」としたお寺をお作りになりました。そして1681年(延宝9年)に
現在地に本堂が移され、今日にいたっております。

茶碗坂

永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神
として勧請せられ祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明
治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残ったのである。夷川
通りに鎮座せられていた室町時代作の恵比須を祀っている足利尊氏
、義政が、この地に花を愛で宴を開いたと伝えるが今日でも東方山中
に瀑布が有り奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として聞
こえている。社殿は度々荒廃し、明治の修築の際本宮、新宮、那智、
若宮などがあったが、現在は1社相殿になっている。

茶碗坂

”秋は紅葉の永観堂”とうたわれ、昔から紅葉で名高い永観堂は、正式に
は禅林寺という。貞観5年(863)に創建。最初は密教の道場であったが、平
安時代に永観が浄土念仏を唱えて専修念仏道場となり、永観堂の名がつ
いた。現在は浄土宗西山禅林寺派の総本山。楓におおわれた山内に回廊
が走り、御影堂、本堂へと続いている。本堂の阿弥陀如来は、顔をななめ
後ろに向かれており「みかえり阿弥陀」と呼ばれている。山上には多宝塔
があり、京都市内の眺望が素晴しい。弁天池のまわりはとくに楓が多く、木
立の中に与謝野晶子の歌碑がある。

秋でもないのに紅葉が?

南禅寺前でランチ

このあたりには湯豆腐を出すところが多い。天気が良いので屋外で
食事した。

茶碗坂

室町時代は五山の上位に列せられる大寺院です、亀山天皇の離宮を正応4年(1291)大明国師を開祖として寺と改め禅林禅寺とする2世南院国師の時に南禅寺と改めました。方丈の狩野探幽作の襖絵/水呑の虎が有名、虎の子渡しの庭と呼ばれる方丈庭園は砂と石と松で構成された枯山水庭園の代表的なものです、石川五右衛門伝説の山門/塔頭の紅葉...門前の湯とうふ...と色々と堪能出来る寺院です。

水路閣

南禅寺の境内に、苔むしたようなレンガ造りのアーチ式橋がある。琵琶
湖から引いた水を通 している疏水支流の水路閣で、一世紀余を経てく
すんだ色合いはなかなかに風格がある。明治21年に造られた当時、
古寺の伽藍とは違和感があるということで、かなりの反対や反響もあっ
たようだ。 まさに、優れたものが時代という衣装をまとって骨董として
の価値を高めるように、色が落ち着き、今となっては見事に景観に溶け
込んでいる。もともと京都は、異文化を上手に取り込んで、京都的とも
いうべきものに変化させるのが、得意なのである。

茶碗坂

南禅寺の塔頭で、中門の南西に立つ。応永年間(1394〜1428)に
足利義持が北山に創建。慶長のはじめに以心崇伝が南禅寺塔
頭として現在の場所に移した。入母屋造り、柿葺の方丈は伏見
城の遺構を移築したもので、各室内の狩野派による襖絵が有名
だ。6つの窓が設けられた茶室八窓席は金地院庭園とともに小堀
遠州によるもの。「鶴亀の庭園」といい、全面の白砂は海洋を表し
、仙人を乗せて羽ばたこうとする鶴の姿を彷彿とさせる鶴石と、
不老不死の島と伝わる蓬莱山を背負った亀を表す亀石が配され
ている。

茶碗坂

無鄰庵は明治27〜29(1894〜1896)年に山口県(長州)出身の明治・
大正の元老山県有朋によって造られた別荘です。 無鄰庵の名の由来
は有朋が長州に建てた草菴が隣家のない閑静な場所であったところ
から、名付けられました。最初京都の木屋町二条に別荘を構え、無鄰
庵と号したがさらに新しい地に好みの別荘を求めて建てられたのがこ
の無鄰庵です。日露戦争勃発のため一時中断しましたが、2年後には
完成しました。

茶碗坂

京都という歴史的都市のコンテクストの中で20世紀美術の場として現
代という時代性をいかに表現するかが重要なテーマであった。風致地
区の美術館として、外観は静謐な佇まいとし、内部には企画・常設展
示室、収蔵庫、講堂などの充実した機能を設けている。1.5mグリッドを
外観表現の基準モジュールとし、水平性と垂直性、近代と過去、透明
性と重厚性、日本と西洋を二重の様相として外壁面に写し出している

茶碗坂

明治28年(1895年)平安遷都1100年記念に、平安京大内裏の正庁を
模して造られました。本殿の裏に広がる広大な神苑は、東苑、中苑、
西苑、南苑の4つに分かれた回転式遊苑で、明治・大正期の庭園の
傑作とされています。祭神は恒武天皇と孝明天皇(昭和15年に合祀
)です。

茶碗坂

”黒谷さん”の名で親しまれている金戒光明寺は、比叡山を出た法
然上人が承安5年(1175)、草庵を結んで念仏道場をひらいたことが
起こりという。現在は、浄土宗鎮西派の寺院である。壮大な山門か
ら石段を上ると、御影堂、阿弥陀堂、方丈、庫裏などが威風堂々と
建ち、阿弥陀堂は慶長10年(1605)、豊臣秀頼が方広寺大仏殿の
木材を使って再建したものと伝えられている。ほとんどの建物内部
は非公開。

茶碗坂

永観2年(984)に一条天皇の母東三条院藤原詮子が、比叡山堂行
寺にあった阿弥陀如来を神楽岡の離宮に移し、戒算上人を開山
として興した寺です。応仁の乱では東軍の陣となったため諸堂が
全焼し、現在の堂宇は江戸時代中期の再建によるものです。