エジプト周遊8 12月24日

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26日

23日

また、早朝に目覚めたので、ベランダからナイル川の夜明けを眺めました。

出発までにまだ時間があるので、オールドカタラクトの見学に出かけることに。このホテルはアガサ・クリスティが「ナイル・殺人事件」を執筆したホテル。映画でも登場していた。



こちらがオールド・カタラクトの正門かな?門番もいるし、噴水や庭がある。門から外の通りへ出てみました。

静かな水面をファル
ーカが滑る。平和な
時間が流れていきま
す。

切りかけのオベリスクは古代の石切り技術が分かる。まず、石に切り込みをつけてそこに木の楔を打ち込み、次に楔を水でぬらす。すると楔が膨張し、自然に石が割れる。切り口はほとんど凹凸が無く、滑らかに切れるとか。それにしてもこんな大きなオベリスクどうやって運んだのやら。その技術は?

切りかけのオベリスク
アスワンハイダム

アスワン南方12kmの地点にある幅
3600m、高さ111mの巨大なダム。体
積はギザのピラミッドの
92倍。1970
年、ドイツとソ連の協力によって完
成した。エジプトが誇る現代の巨大
建築。ここから上流に
500qにおよぶ
人造湖ナセル湖が続いている。湖の
面積は琵琶湖の
7.5倍とか。私が立っ
ているところがどうもダムの上らし
い。

ダムからアスワンの町へ帰る途中、サハラ砂漠の砂を取りに行きました。サハラの砂って砂時計に使われるような細かーい砂だそうな。

サハラの砂

座像は新王国時代絶頂期の王アメンホテプ3世のもの。もともと座像の後ろには、彼の葬祭殿があったが、のちの王達が石材として使用し、完全に破壊された。プトレマイオス朝には、ギリシャ神話のメムノンのものとされ、現在の名がついたらしい。ローマ支配時代に起きた地震によりヒビが入り、激しい温度差による軋み、または風によって「像が歌う」といわれ、不思議がられていた。その後の補修工事により、今では静かになった。

ルクソール西岸

太陽が沈むナイル川西岸の砂漠は、古代エジプト人にとってあの世がある
場所であり、墓地であった。

王家の谷

皆さんがツタンカーメン王の墓に入られている間に私たちはラムセスVの墓に入りました。新王国第20王朝の王。新王国時代最後の偉大な業績を残した王。西の砂漠からリビア人や東地中海からの会場民族を打ち破り、その様子をメディネット・ハブのラムセスV葬祭殿に残している。

入り口には番人がいて、入場券と写真撮影券をチェックしている。ここが石室。石棺は無い。ハープを弾いている絵が有名だそうだが、分からない。壁画は樹脂板で覆われているが、覆われていないものもある。

ハトシェプスト女王葬祭殿へ向かう

切り立った崖を背景に建つハトシェプスト女王葬祭殿は、3段のテラス
を持つモダンな造りで、神殿建築の傑作と言われている。第
1テラスに
は、オベリスクがどのようにしてアスワンの石切場からテーベに運ばれ
たかが説明されている。
2テラスには、ハトシェプスト女王が自分の
王国での地位を強固するために、神であるアモンを父とする系図や、生
にえを献上する場面が描かれ、見どころとなっている。 
3テラスに
は、トトメス
3世がハトシェプスト女王の名を消して自分の名前を刻ま
せた、赤色花崗岩の門がある。
1997年、このテラスで観光客への乱
射事件があった。観光客が激減し、警備が非常に厳しくなり、いたると
ころに警備兵が立つ様になったので、かえって安心かも。

ルクソール神殿のライトアップ

カルナック神殿の副神殿として造営される。川に沿って平行に建てられた。中王国時代には小祠堂が建立されていたが、今はなく、新王国時代第18王朝のアメンヘテプV(前14世紀頃)と第19王朝のラムセスU(前13世紀頃)による神殿遺構が主要部分を構成している。塔門から中庭、列柱室・至聖所まで260mの一直線に配され、複雑で広大なカルナック神殿に比べると、シンプルで優雅なつくり。

1塔門にはラムセスUの座像とオベリスクが建っている。表面に神と王を
讃えるヒエログリフが深く刻まれている。新王国時代になると装飾をかね
て左右
2本のオベリスクを建てるようになった。多くはアスワンで算出する
良質の花崗岩製である。プトレマイオス朝までに
100本ほどのオベリスクが
切り出されたが、ほとんどが欧米に持ち出され、今、エジプトには
10本ほ
どしか残っていないとか。ルクソール神殿のオベリスクも、
1本はパリのコ
ンコルド広場にある。
1831年、エジプトの支配者ムハンマド・アリからフ
ランス皇帝に贈られた。
そのお礼にフランスから贈られたのが、カイロの
ムハマド・アリ・モスクの野外用大時計である。

スフィンクス参道
アメンヘテプVの列柱廊

25日