ボヘミアの古城へ 7月26日

プラハの南西約25km、緑の美しい丘陵地帯にある14世紀
に建てられた古城。プラハに繁栄をもたらしたボヘミア王
かつ、神聖ローマ皇帝カレル
4世の創建。当初は王族の住
まい兼財宝を保管するための要塞だった。後、王族の夏の
別荘に。ゴシック様式の雄大な城。

歩いてお城まで20分あまりのダラダラ坂を登ります。両側にみやげ物店・カフェ・レストランが並んでいる。

見えるかな?井戸の中。滑車を使って樽で水をくみ上げる。同じですね日本と。城のふもとを流れている川からととっているとか。

マチアス門。儀礼服の衛兵が直立不動で立っている。ちょっと失礼してハイピース!衛兵の交代式は毎正時行われるが、残念ながら今は、311分。

ブルタバ川西岸のフラッチャニ
にそびえるプラハ城はプラハの
シンボル。市街を睥睨する歴代
王の居城。
9世紀半ばに建築が
始まり、
14世紀のカレルWの治
世に現在の偉容が整えられた。
城壁に囲まれた広大な敷地に、
旧王宮・教会・修道院が立つ。

「ヨーロッパの魔法の都」「黄金の町」「北のローマ」
「ヨーロッパの音楽院」「百塔の町」「建築博物館の町」
など、プラハに捧げられた賛辞は多い。プラハは美しい
だけでなく、長い歴史のそのほとんどの時代において、
他国に侵略されつづけ、自国の自由が得られないという
つらい過去を持ちながら、民族的誇りを失わず、自らの
言葉と文化を守り続けてきた町である。

聖ヴィート大聖堂
東岸からプラハ城を見ると真っ先に目に入るのがこの大聖堂の
2本の尖塔。この大聖堂はもと930年に造られたロトゥンダ(円筒形のシンプルな教会)から始まった。1344年現在のゴシック様式に改築し始める。最終的に完成したのは20世紀に入ってから。奥行き124m、幅60m、塔の高さは96.6m。見事なステンドグラスの中にはムハ(ミュシャ)の作品もあるとか。

すごい金のモザイク

イジー広場

旧王宮。実際に歴代の王宮として使われていたのは
16世紀まで。騎士の馬上競技や戴冠式など、国家的行事のときに使用され、1934年からは大統領選挙が行われている。

聖イジー教会

921年に完成した
城内最古の教会。
ロマネスク様式の

2
本の尖塔をもつ
。現在は音楽ホー
ルとしても使われ
ている

ロマネスク様式
の尖塔

黄金の小道を下って、城壁からプラハの町
並みを臨む

カレル橋

ブルタバ川にかかるプラハ最古の石橋。14世紀から15世紀の初めにかけてカレル4世によって建造されたゴシック様式の美しい橋。全長520m、幅10m。両側の欄干に並ぶ30体の聖人像が目を引く。9月に小泉首相も訪れた。

カレル橋の前は?

 12世紀の初めに木造の橋がか
けられたが、洪水で流され、石
橋が作られた。(ドイツのレー
ゲンスブルグについでヨーロッ
パで
2つ目の石橋)この橋はヴ
ラティスラフ
2世の第二妃の名
をとってユディタ橋と名づけら
れ、交通の要衝となったが、こ
れまた洪水で流される。その後
1357年に着工し、60年近くか
けて完成されたのが現在の橋。
建築家は弱冠
27歳の天才ペトル
・パルレージュ。当時両岸を結
ぶ唯一の橋で、何度かの洪水に
も耐えて
600年近くも建材で、
その技術はすばらしい。

聖ヤン・ネポムツキー像 1683
年作。橋上最古で、唯一のブロ
ンズ像。レリーフに触れると幸
運が訪れるというのでみんな行
列を作って触っている。小泉首
相も触っておられた。

観光客目当てのマリオネットショー

聖ノルベルト・ヴァ−ツラフ・ジギスムント像。1853年作

聖ルトガルディス。傷口にキスしようとする聖女のために十字架上のキリストが身をかがめている。橋の上でも最も美しい像だとか。

ブロンズの十字架像。1657年建立。1696年ヘブライ語の碑銘が刻まれた。ここは14世紀から十字架が立っていた。両側の聖母とヨハネの石像は1861年作。

カレル橋の景観を特徴付けている聖人像は左右の欄干に15対ずつ。橋の完成と共にあったのではなく、17世紀から19世紀にかけて加えられた。そのため、橋はゴシック様式だが、彫像はバロック様式のものが多い。

橋塔。橋の袂にはそれぞれに塔が立っている。旧市街側橋塔は1400年、ペトル・パレルージュ作。通行料を徴収したり、橋を守る立てられたもの。現在は開放され、塔の上からカレル橋を見下ろせるとか。登ってない!

旧市街広場

プラハの心臓部。11世紀頃、ドイツやフランスなどとの商業的関係の発展にともない、教会や商人の住居などの建物が建てられ、この広場が次第に形づくられた。以後、この広場はさまざまな歴史的事件の舞台となる。広場の周りにはゴシック様式・ルネッサンス様式・バロック様式などの異なる建築様式の建物が混在し、歴史の生き証人になっているとか。

ティーン教会

1135年、外国の商人たちの宿泊施設に附属して建てられた教会。
1365年改築。金の飾りを頂点に頂く2本の塔、高さは80m。本当
はティーン(税関)の前の聖母マリア教会という名。裏手に税関
があった。前の建物はティーン学校。

観光馬車が走っています。後
ろは
旧市庁舎と聖ミクラ−シ
ュ教会

旧市庁舎

 旧市庁舎はゼロから建設したものではなく、数世紀かけて元からある建物を増改築したり、業務上の必要のため隣接する家を買い取ったりしてきたものである。そのため装飾や大きさが異なる建物が連なっていて、どこからどこまでが旧市庁舎なのかわかりにくい。時計のある塔から黒地の壁面いっぱいに人物が描かれたスグラフィット装飾が目を引く角の建物までが旧市庁舎。現在の建物は第2次大戦で破壊されたあと修復されたもの。旧市庁舎内には小さな礼拝堂があり、結婚式場として人気がある。

縦に2つの円が並んでいて、それぞれが作られた当時の宇宙観(天動説)に基づいた天体の動きと時間を表している。上が地球を中心に回る太陽と月、その他の天体の動きを示し、年月日と時間を示し、年月日と時間を示しながら1年かけて一周するものでプラネタリウムと呼ばれている。下は獣の12宮と農村における四季の作業を描いた暦で一日に1目盛り動く。こちらはカレンタリウム。

ボヘミアングラスのお店でお買い物

9時から21時の毎正時になると仕掛けが動き出す。2つの円盤の上には天使の像があり、その両側の窓が開いてプラネタリウムの脇にいる死神が鳴らす鐘の音と共にキリストの12使徒が窓の中にゆっくり現れては消えていく。最後に時計の一番上に現れる鳩が鳴いて終わる。

この時計の作者には2人の言い伝えがある。1490年頃に時計作りの親方ミクラ−シュが作ったと言うものと、15世紀頃のプラハの天文学者でカレル大学の数学教授だったハヌシュによると言うもの。 ハヌシュについては、完成した時計のメカニズムがあまりにもすばらしかったため、プラハ市会議員からねたまれた。また、同じような時計を作ってほしいと言う他の都市からの依頼もあった。ある晩、彼は何者かに目をつぶされ、やがて死んだ。彼の死と同時に時計は停まってしまったが、その後幾度かの修理で時計は再び時を刻みだし、現在は1948年に取り付けられた伝動装置によって作動している。仕掛け時計のある塔はてっぺんまで登ることができるので、仕掛け時計最上部にあるキリスト12使徒のからくりを裏側から覗くことができる

旧市街広場では色々なパフォー
マンスをしている人が。コンサ
ートの準備もしていた

聖ミクラ−シュ教会(上)

バロック様式のファサードが
荘厳な雰囲気を漂わせる。何
度も建て直しや改修が行われ
18世紀の初頭、現在のもの
に。音響がよく、夏の夜には
見にコンサートが開かれる。
私たちが行ったときはチケッ
トがなかった。

火薬塔(右)

 くすんだ黒が印象的な火薬塔は1475年にゴシック様式で建てられた旧市街を守っていた城壁の門の一つ。17世紀に火薬倉庫として利用されたために幸呼ばれるようになった。塔の高さは65m。18世紀半ば戦災で大きな被害を受け19世紀末に修復された。内部はギャラリーに鳴っている。

ナ・プシーコピェ通りはかつて旧市街を敵から守る堀だった。しかし、1760年頃埋められこの道ができた。「堀の上に」の意。今はインフォメーション・銀行・カフェ・映画館などが立ち並ぶ。両側の建物はファサードが美しい。

ヴァ−ツラフ広場の角のカフェテリアで夕食を食べた。お腹
がすいてなかったので、ハムサンドを食べてビールを飲んだ
だけなのに、いっぱいサービス料や席料を取られて
2500円以
上した。ま、銀座で食べたらそれくらいになるのかも。でも
、物価が違うのでは? 高いせいか、若者はウェーターに何
か聞いては去っていって、結局は中年から老年の人ばかり。

旧ユダヤ人墓地はレンガの隙間から覗いたけれど、入れなかった。墓地の出口近くにある儀式の家。1912年に建てられたもので、儀式のためのホールであり、死体置き場でもあった。現在はユダヤ人の伝統や生活習慣、中でも病気や死・墓について展示されている。(右2つ)

芸術家の家(ルドルフィヌム)

 19世紀後半に約10年をか
けて建てられたこの建物は
チェコのネオ・ルネッサン
ス様式の代表的建築として
知られている。
内部は「プ
ラハの春」音楽祭のメイン
会場になっているドボルジ
ャークホールをはじめ、大
小のコンサートホールやギ
ャラリーがある。
ちょうど
、何かの幕間だったようで
、男女が、グラスを傾けて
いた。

プラハ城の夜景。ブルタバ川に影を映している建物は何かわから
ない。

カルルステイン城